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野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 - 1974年(昭和49年)3月29日)は、日本の海軍軍人。日中戦争勃発後に設置された大本営において海軍報道部長を務めた海軍中将である。 ==人物・来歴== ===略歴=== 北海道出身。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦「鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した〔『諸報告』野田清「随感随筆」〕。帰国後海大甲種17期を卒業。 佐官時代は艦隊では第三艦隊、第二艦隊の各参謀や軽巡洋艦「鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官兼大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官〔『海へ帰る』「海軍大学校時代」〕、軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。 中佐時代には半年間欧米出張を命じられている。1928年(昭和3年)12月大佐へ進級し、1931年(昭和6年)ジュネーブ会議全権委員随員となり、帰国後海軍軍事普及部委員長に就任した。就任時期は資料により異なる〔『日本海軍史』では1934年7月28日、『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では同年11月15日〕が、前任の委員長は艦隊派の忌諱に触れ解任された坂野常善であった。 支那事変により大本営が設置されたことに伴い、海軍軍事普及部は廃止されて海軍報道部へ移行し、野田は初代部長を務める。この間の1934年(昭和9年)11月に少将へ昇進している。野田は報道部長を1年務めて1938年(昭和13年)11月中将へ昇進し翌月予備役となった。その後は帝国アルミニウム統制会社の役員を勤めた〔神戸大学付属図書館 大阪朝日新聞1940年(昭和15年)9月17日付 2011年6月28日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田清 (海軍軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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